僕は時々、「思い出だけで生きていけるんじゃないか?」と思うことがある。今が惨めでも、誰からも愛されなくても、お金がなくても、成功とかそういうのから縁遠くても。心を温めてくれるような幾つかの思い出だけで生きていけるような気がすることがある。いや、正確に言うなら「思い出だけで生き抜いてみせる」と意固地になっているだけなのかもしれない。実際のところはまだ分からない。これは人生を使った実験のようなものだからだ。被験者は僕、最後までデータを取れるかの保証も特にないのだが。

 その昔、僕には恋人が居た。彼女の部屋でお互い本を読んでいる(彼女は戦争についての歴史書、僕は村上春樹のデビュー作)と、「ねえ、貴輝くんは前にどういう人と付き合ってたの?」と訊かれた。少しの間沈黙し、「どうしたの?」と僕は答えた。何の脈絡もなくそんなことを訊かれたことが僕にはなく、少しでも考える時間を作る必要があった。彼女は「いいから」と言った。多分、二人同時くらいに本を閉じたと思う。「例えばどんなん知りたいの?」と僕が訊くと「んー? なんでも。どんな顔してたとか、どこでデートしたとかさ、どんなふうに知り合ったとか、さ」と返ってきた。こんな話をする時は大抵ろくなことにならないわけだが、僕は諦めて彼女の体を抱え、頭を撫でながら、昔の恋人について話し始めた。冗談を言って誤魔化したかったのだが、それを許さない強さがそのときの彼女にはあった。僕の目を真っ直ぐに見つめ黙って聞いているのだが、時々「ふうん」とか「それで?」とか「続きは?」と相槌を打っていた。昔の恋人についてのディティールやエピソードを話し、その締め括りに「君に会うまでもう誰も好きになれないと思ってて、思い出だけで生き抜いてみせるって思ってたんだよね」と言った。少しの間、沈黙が続き僕は彼女の頭を撫で続けた。

彼女は「もういい!」と言った。頭を撫でていることに対してなのか、昔の恋人のエピソードについてなのか、僕には判断が出来なかった。どちらにしろ、きっと不快な思いをして怒っているのだろうと思った。なんとか誤魔化してはぐらかせば良かったかなと考えていると、彼女は僕に抱き着いて、頬っぺたをかぷっと噛み「お・も・ち!」と言った。ヤキモチのことである。それから、僕の胸に顔を埋めたまま「思い出だけで生きていく人生は今日で終わりですよ」と言ってくれた。「これからは私がついてますからね」と。僕は半分泣きそうな顔になりながら彼女を抱き締めてキスをした。とても幸せな気持ちになって、このまま死ねたらどんなに素晴らしいだろうと思った。

 どうだい? きゅんとしただろう? やがて彼女は僕のもとを去り思い出だけが残ったわけだ。そして、僕は懐かしく思いながら、とある夜の出来事を文章にすることが出来る。時間はしっかりと流れているということだ。実験の続きではあるが途中経過としては、僕は「もっともっと沢山の思い出が欲しい」と思っていることが分かった。ごきげんよう。